素朴な疑問から
2009年03月15日
伊邪那岐命・伊邪那美命の夫婦神が、淤能碁呂島(おのごろじま)に天降った話の、
もとになった素材は何だったのでしょう?
その後の、「大八島国の生成」や、
天照大御神をはじめとする、「三貴子の誕生譚」、「黄泉の国」などの話には、
なんらかの「現実のモデル」があったのでしょうか?
天岩戸の話、大国主神の国譲り、
そうして、
記紀神話のクライマックスとされる、邇邇芸命(ににぎのみこと)の「天孫降臨」。
これらの記事が、
「たんなる空想の産物」だったなら (ふつうはそう考えられているのですが)、
少なくとも、「神話編」については、
歴史を探るという観点からしたら、べつに無くてもかまわないわけです。
けれども、
今日的には荒唐無稽ともいえる内容に、もしなんらかの史実が埋もれているとしたら、
記紀は私たち古代史ファンに、この上ないロマンを提供してくれることでしょう。
それでは、もし記紀の神話編が、なんらかの史実をもとにして記述されたのだとしたら、
いったいどのようにしたら、その「史実」にたどりつけるのでしょうか、・・・?
試みに、記紀に記されている系図をもとに、
神話の登場神(人物)たちの「在世年代」を推計してみました。
そうしたら、非常に面白いことが解ってきたんです。
「記紀神話は、天皇家のご先祖たちの、弥生時代の歴史を物語っている!」
ということでした。
記紀神話を読み解くことから得られた歴史は、荒唐無稽な作り話ではなく、
今日の考古学上の成果によっても支えられていたのです。
ところで、この国の弥生時代の情勢を探るための文献資料としては、
例の「魏志倭人伝」があまりにも有名で、
古代史に関心をもつ多くの人たちが、それを読解するために、
気が遠くなるほどの努力と時間を費やしてきたことでした。
けれども、
その目指すところはというと、「邪馬台国」の所在地は北九州か、それとも大和だったのかと、
ただその一事について、ほとんど二者択一的に論考されて、しかもいまだに決着がついていません。
私は、「魏志倭人伝」をどんなに精読してみても、
「邪馬台国」のあった場所は特定されないと考えています。
なぜなら、その所在地は、
「弥生時代の歴史」を語ることに成功して、初めて派生的に理解される性格のものだからです。
異国の断片的な文献資料にこだわりすぎると、
いつまでたっても、肝心の「弥生時代の歴史」が浮かび上がってくることはないでしょう。
「魏志倭人伝」の資料的価値は、
そこに「景初三年」( 西暦239年 ) という信頼できる年号が記されているところにあります。
西暦239年は、
弥生時代後期の半ば過ぎ、古墳時代前夜に相当するわけですが、
古代の歴史を探っていったとき、
組み立てた弥生時代の歴史の流れを、この年号によってチェックすることができるからです。
弥生時代の歴史が「景初三年」に到ったとき、そのとき、どこに「邪馬台国」が所在したのかが判るはずです。
古代史の謎(=ロマン)は、どれほど沢山ありますことか!
邪馬台国の所在地や「卑弥呼」を探すのも結構なのですが、
それよりも、もっともっと考察されるべきカテゴリーは、
「天孫降臨」の経緯(いきさつ)であるとか、高地性集落の謎だと思うのです。
もとになった素材は何だったのでしょう?
その後の、「大八島国の生成」や、
天照大御神をはじめとする、「三貴子の誕生譚」、「黄泉の国」などの話には、
なんらかの「現実のモデル」があったのでしょうか?
天岩戸の話、大国主神の国譲り、
そうして、
記紀神話のクライマックスとされる、邇邇芸命(ににぎのみこと)の「天孫降臨」。
これらの記事が、
「たんなる空想の産物」だったなら (ふつうはそう考えられているのですが)、
少なくとも、「神話編」については、
歴史を探るという観点からしたら、べつに無くてもかまわないわけです。
けれども、
今日的には荒唐無稽ともいえる内容に、もしなんらかの史実が埋もれているとしたら、
記紀は私たち古代史ファンに、この上ないロマンを提供してくれることでしょう。
それでは、もし記紀の神話編が、なんらかの史実をもとにして記述されたのだとしたら、
いったいどのようにしたら、その「史実」にたどりつけるのでしょうか、・・・?
試みに、記紀に記されている系図をもとに、
神話の登場神(人物)たちの「在世年代」を推計してみました。
そうしたら、非常に面白いことが解ってきたんです。
「記紀神話は、天皇家のご先祖たちの、弥生時代の歴史を物語っている!」
ということでした。
記紀神話を読み解くことから得られた歴史は、荒唐無稽な作り話ではなく、
今日の考古学上の成果によっても支えられていたのです。
ところで、この国の弥生時代の情勢を探るための文献資料としては、
例の「魏志倭人伝」があまりにも有名で、
古代史に関心をもつ多くの人たちが、それを読解するために、
気が遠くなるほどの努力と時間を費やしてきたことでした。
けれども、
その目指すところはというと、「邪馬台国」の所在地は北九州か、それとも大和だったのかと、
ただその一事について、ほとんど二者択一的に論考されて、しかもいまだに決着がついていません。
私は、「魏志倭人伝」をどんなに精読してみても、
「邪馬台国」のあった場所は特定されないと考えています。
なぜなら、その所在地は、
「弥生時代の歴史」を語ることに成功して、初めて派生的に理解される性格のものだからです。
異国の断片的な文献資料にこだわりすぎると、
いつまでたっても、肝心の「弥生時代の歴史」が浮かび上がってくることはないでしょう。
「魏志倭人伝」の資料的価値は、
そこに「景初三年」( 西暦239年 ) という信頼できる年号が記されているところにあります。
西暦239年は、
弥生時代後期の半ば過ぎ、古墳時代前夜に相当するわけですが、
古代の歴史を探っていったとき、
組み立てた弥生時代の歴史の流れを、この年号によってチェックすることができるからです。
弥生時代の歴史が「景初三年」に到ったとき、そのとき、どこに「邪馬台国」が所在したのかが判るはずです。
古代史の謎(=ロマン)は、どれほど沢山ありますことか!
邪馬台国の所在地や「卑弥呼」を探すのも結構なのですが、
それよりも、もっともっと考察されるべきカテゴリーは、
「天孫降臨」の経緯(いきさつ)であるとか、高地性集落の謎だと思うのです。
Posted by Tom at 16:17 | Comments(0)
皇祖たちの在世年代を推計する
2009年03月18日
記紀神話の登場神 ( 登場人物 ) たちが活動したのはいつ頃だったのか、
その在世年代を推計してみます。
ご存知のように、記紀の系図は、天照大神を除いて、
他の全てが、男系による相続です。
父子相続がほとんどですが、部分的に兄弟間の相続であったり、
例外的に、応神天皇の五世孫として、継体天皇が即位しています。
専門家の少なからぬ方々は、
この系図を、眉唾物だとおっしゃっていて、
それがまた、なるほどと思わせられるような論理を展開されているものですから、
私のような在野の素人は、つい「ああ、そうなんだ。」と・・・。
けれども、
記紀神話が、考古学上の知見と照らし合わせて語られている、
『弥生時代の歴史』に出遭ったことはありません。
そこで、私は、試みに記紀の系図を全て信頼して、
記紀神話の登場神 ( 登場人物 ) の在世年代を推計し、
現時点で通用している考古学上の成果と照らし合わせて、
記紀の記述の意味するところを想像してみました。
今回は、私がおこなった、皇祖たちの在世年代の推計方法を発表します。
とりたてて特別なものではなく、
誰もが思いつく、ありきたりの方法ではありますが、・・・。
生没年がおおよそ分かっている古代天皇をリストアップして、
その『平均寿命』を計算し、それを道具として推計しました。
リストアップしたのは、第 30 代・敏達天皇から、第50代・桓武天皇までの歴代天皇です。
この間、斉明天皇と称徳天皇とは、それぞれ重祚されてのことだから、計算から外します。
それから、第 32 代 ・崇峻天皇と、第 40 代・天武天皇は、生年が不明ですから、やはり計算しません。
こうして、17 人の天皇の平均寿命を計算しました。
その結果、52.88 歳 という平均寿命を得られました。
四捨五入して、53 歳としたいところですが、
我田引水と言われたくないので、小数点以下は切り捨てて、52歳とし、
これを敏達天皇の前の、第 29 代・欽明天皇から被せて、記紀の系図を遡っていきました。
ただし、このとき、皇位の継承が兄弟の間でなされたばあいには、
その二人、あるいは三人の兄弟天皇たちについて、一代として計算しました。
たとえば、第 27 代・安閑天皇と、第 28 代・宣化天皇は、
継体天皇を父親とする同母兄弟であり、
第 29 代欽明天皇は、同じく継体天皇を父親とする、異母弟ですから、
この三人の天皇については、一代として計算しました。
それでは、
この方法で得られた、記紀神話の主な登場人物(神)たちの、推計在世年代を記しておきます。
伊邪那岐命 B.C. 164 → B.C. 112
天照大神 B.C. 138 → B.C. 86
邇邇芸命 B.C. 86 → B.C.34
神武天皇 B.C.8 → A.D.44
崇神天皇 A.D. 226 → A.D.278
以上です。
ここで得られた記紀神話の主な登場人物(神)たちの在世年代は、
無論、推計の域をでるものではありませんが、
この推計在世年代と今日の考古学上の成果が、
驚くほどに、記紀神話の物語りと重なり合ってしまうのです。
淤能碁呂島(おのごろじま)・・・
伊邪那岐命と伊邪那美命の夫婦神が、天上から降臨した島だと記述されていますが、
今どき、誰もその島の実在を信じていないでしょう。
ところが、淤能碁呂島が存在したことについては、
考古学がバックアップしてくれているのです。
次回は、そのことについて投稿します。
その在世年代を推計してみます。
ご存知のように、記紀の系図は、天照大神を除いて、
他の全てが、男系による相続です。
父子相続がほとんどですが、部分的に兄弟間の相続であったり、
例外的に、応神天皇の五世孫として、継体天皇が即位しています。
専門家の少なからぬ方々は、
この系図を、眉唾物だとおっしゃっていて、
それがまた、なるほどと思わせられるような論理を展開されているものですから、
私のような在野の素人は、つい「ああ、そうなんだ。」と・・・。
けれども、
記紀神話が、考古学上の知見と照らし合わせて語られている、
『弥生時代の歴史』に出遭ったことはありません。
そこで、私は、試みに記紀の系図を全て信頼して、
記紀神話の登場神 ( 登場人物 ) の在世年代を推計し、
現時点で通用している考古学上の成果と照らし合わせて、
記紀の記述の意味するところを想像してみました。
今回は、私がおこなった、皇祖たちの在世年代の推計方法を発表します。
とりたてて特別なものではなく、
誰もが思いつく、ありきたりの方法ではありますが、・・・。
生没年がおおよそ分かっている古代天皇をリストアップして、
その『平均寿命』を計算し、それを道具として推計しました。
リストアップしたのは、第 30 代・敏達天皇から、第50代・桓武天皇までの歴代天皇です。
この間、斉明天皇と称徳天皇とは、それぞれ重祚されてのことだから、計算から外します。
それから、第 32 代 ・崇峻天皇と、第 40 代・天武天皇は、生年が不明ですから、やはり計算しません。
こうして、17 人の天皇の平均寿命を計算しました。
その結果、52.88 歳 という平均寿命を得られました。
四捨五入して、53 歳としたいところですが、
我田引水と言われたくないので、小数点以下は切り捨てて、52歳とし、
これを敏達天皇の前の、第 29 代・欽明天皇から被せて、記紀の系図を遡っていきました。
ただし、このとき、皇位の継承が兄弟の間でなされたばあいには、
その二人、あるいは三人の兄弟天皇たちについて、一代として計算しました。
たとえば、第 27 代・安閑天皇と、第 28 代・宣化天皇は、
継体天皇を父親とする同母兄弟であり、
第 29 代欽明天皇は、同じく継体天皇を父親とする、異母弟ですから、
この三人の天皇については、一代として計算しました。
それでは、
この方法で得られた、記紀神話の主な登場人物(神)たちの、推計在世年代を記しておきます。
伊邪那岐命 B.C. 164 → B.C. 112
天照大神 B.C. 138 → B.C. 86
邇邇芸命 B.C. 86 → B.C.34
神武天皇 B.C.8 → A.D.44
崇神天皇 A.D. 226 → A.D.278
以上です。
ここで得られた記紀神話の主な登場人物(神)たちの在世年代は、
無論、推計の域をでるものではありませんが、
この推計在世年代と今日の考古学上の成果が、
驚くほどに、記紀神話の物語りと重なり合ってしまうのです。
淤能碁呂島(おのごろじま)・・・
伊邪那岐命と伊邪那美命の夫婦神が、天上から降臨した島だと記述されていますが、
今どき、誰もその島の実在を信じていないでしょう。
ところが、淤能碁呂島が存在したことについては、
考古学がバックアップしてくれているのです。
次回は、そのことについて投稿します。
Posted by Tom at 19:54 | Comments(0) | TrackBack(0) | 皇祖たちの在世年代
淤能碁呂島(おのごろ島)
2009年03月21日
淤能碁呂島(おのごろじま)・・・
古事記では、伊邪那岐命・伊邪那美命の夫婦神が、天の浮き橋から天の沼矛をさし下ろして、
海の塩を固めてつくった島だと語られています。
日本古典文学大系 ( 岩波書店 ) の解説には、
『自凝島で、ひとりでに凝って出来た島の意。この島の所在については、諸説があって明らかでない。』
とあります。
また、岩波文庫『日本書紀 ( 一 ) 』の解説によりますと、
『オノは、自の意。ゴロは凝る意。』
ということです。
つまり、淤能碁呂島とは、ひとりでに生まれ出た島という意味です。
さて、
「縄文海進」とは逆に、海水面が急激に下っていく「海退現象」が、
今から約4000年前から始まり、その現象は、2000年間ほど続いたとされています。
その期間、毎年毎年、汀 ( みぎわ ) が後退していきました。
そうして、やがて、この列島の各地の海岸で、
少し向こうの海の中から、新しく小さな島々が、点々と頭を見せはじめました。
古事記・日本書紀にいう淤能碁呂島とは、
この時代に海の中に生まれて、自ずから育っていく様子を観察し続けた古代の人々が、
見たままにそう呼んだ、『普通名詞』だったと考えられるのです。
各地の淤能碁呂島は、その後も長く続いた海退現象の結果、
さらに成長して陸繋島となり、
やがて陸地の一部に変化していったことでしょう。
ところで、
この海退現象によって、現在の宮崎市のあたりには、
西から東へ順番に、第一砂丘から第四砂丘が、南に伸びるかたちで形成されました。
砂丘表面の塩分は、長い年月をかけて洗い流されていきます。
そうすると、どこからか運ばれてきた、草木の種が芽吹きます。
葦は繁殖力が旺盛で、低湿地は一面の葦原と化したことでしょう。
その中に、ハンノキやヤチダモなどの低湿地林が同居したことでしょうか。
砂地がかためられて、淤能碁呂島と記憶されていた場所も、
やがて、人の住める土地に変化していきました。
現・宮崎市の周辺には、いくつかの縄文時代晩期の遺跡が発見されています。
それらの遺跡を遺した人々は、
淤能碁呂島の昔から、幾世代にもわたって、砂丘の変化する様を見とどけていました。
縄文時代の晩期には、すでに稲作の知識も伝えられていたはずです。
それぞれの集落にとって、稲作の可耕地を獲得することは、
次の弥生時代に向けて、時代の要請するところでした。
前回の投稿で、記紀神話の登場神たちの在世年代を推計しました。その中で、
伊邪那岐命 B.C. 164 → B.C. 112
と推計しました。
この年代は、弥生時代の前期に相当します。
ご存知のように、弥生時代の前期 ~ 弥生時代の中期半ば頃までは、
稲作の可耕地を求めて、人々がダイナミックに移動したことが知られています。
以上のことから、
古事記・日本書紀の淤能碁呂島に関する説話は、
縄文時代晩期から弥生時代前期にかけての史実を反映していることが窺えるのです。
伊邪那岐命・伊邪那美命の夫婦神は、
天つ神たち、すなわち、彼らが生まれ育った縄文時代晩期の集落の長老たちの命を受けて、
当時、まだ淤能碁呂島と呼ばれていた、居住可能な土地に移り住んだということです。
さらに、後の記事には、
黄泉の国から帰還した伊邪那岐命が、
『筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原』で禊ぎ祓えをしたというのですから、
この話の舞台としては、現・宮崎市の他に比定できる地域はありません。
古事記では、伊邪那岐命・伊邪那美命の夫婦神が、天の浮き橋から天の沼矛をさし下ろして、
海の塩を固めてつくった島だと語られています。
日本古典文学大系 ( 岩波書店 ) の解説には、
『自凝島で、ひとりでに凝って出来た島の意。この島の所在については、諸説があって明らかでない。』
とあります。
また、岩波文庫『日本書紀 ( 一 ) 』の解説によりますと、
『オノは、自の意。ゴロは凝る意。』
ということです。
つまり、淤能碁呂島とは、ひとりでに生まれ出た島という意味です。
さて、
「縄文海進」とは逆に、海水面が急激に下っていく「海退現象」が、
今から約4000年前から始まり、その現象は、2000年間ほど続いたとされています。
その期間、毎年毎年、汀 ( みぎわ ) が後退していきました。
そうして、やがて、この列島の各地の海岸で、
少し向こうの海の中から、新しく小さな島々が、点々と頭を見せはじめました。
古事記・日本書紀にいう淤能碁呂島とは、
この時代に海の中に生まれて、自ずから育っていく様子を観察し続けた古代の人々が、
見たままにそう呼んだ、『普通名詞』だったと考えられるのです。
各地の淤能碁呂島は、その後も長く続いた海退現象の結果、
さらに成長して陸繋島となり、
やがて陸地の一部に変化していったことでしょう。
ところで、
この海退現象によって、現在の宮崎市のあたりには、
西から東へ順番に、第一砂丘から第四砂丘が、南に伸びるかたちで形成されました。
砂丘表面の塩分は、長い年月をかけて洗い流されていきます。
そうすると、どこからか運ばれてきた、草木の種が芽吹きます。
葦は繁殖力が旺盛で、低湿地は一面の葦原と化したことでしょう。
その中に、ハンノキやヤチダモなどの低湿地林が同居したことでしょうか。
砂地がかためられて、淤能碁呂島と記憶されていた場所も、
やがて、人の住める土地に変化していきました。
現・宮崎市の周辺には、いくつかの縄文時代晩期の遺跡が発見されています。
それらの遺跡を遺した人々は、
淤能碁呂島の昔から、幾世代にもわたって、砂丘の変化する様を見とどけていました。
縄文時代の晩期には、すでに稲作の知識も伝えられていたはずです。
それぞれの集落にとって、稲作の可耕地を獲得することは、
次の弥生時代に向けて、時代の要請するところでした。
前回の投稿で、記紀神話の登場神たちの在世年代を推計しました。その中で、
伊邪那岐命 B.C. 164 → B.C. 112
と推計しました。
この年代は、弥生時代の前期に相当します。
ご存知のように、弥生時代の前期 ~ 弥生時代の中期半ば頃までは、
稲作の可耕地を求めて、人々がダイナミックに移動したことが知られています。
以上のことから、
古事記・日本書紀の淤能碁呂島に関する説話は、
縄文時代晩期から弥生時代前期にかけての史実を反映していることが窺えるのです。
伊邪那岐命・伊邪那美命の夫婦神は、
天つ神たち、すなわち、彼らが生まれ育った縄文時代晩期の集落の長老たちの命を受けて、
当時、まだ淤能碁呂島と呼ばれていた、居住可能な土地に移り住んだということです。
さらに、後の記事には、
黄泉の国から帰還した伊邪那岐命が、
『筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原』で禊ぎ祓えをしたというのですから、
この話の舞台としては、現・宮崎市の他に比定できる地域はありません。
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縄文時代晩期の三遺跡
2009年03月22日
伊邪那岐命・伊邪那美命の夫婦神の生まれ育った場所について、
『宮崎県史・通史編 原始古代 1 』を参考にして、
宮崎市とその近隣にある、三ヶ所の縄文時代晩期の遺跡について想像してみました。
まず、平畑遺跡。
この遺跡は、宮崎市南部の清武川と加江田川にはさまれた丘陵上に営まれたもので、
宮崎県内最大規模の縄文時代の集落でした。
弥生時代には、この平畑遺跡は姿を消していることから、
伊邪那岐命たちが、淤能碁呂島への移住に成功してから、
集落全体を新天地に移動させたのではなかったか、・・・と、
想像してみました。
次に、松添貝塚。
この遺跡は、平畑遺跡の東南、約 4.5 キロメートルの位置にあって、
平畑遺跡と同じ時期に営まれたものです。
海に面したところにあって、
クジラやイルカの骨なども出土していることから、
漁労にたけた人々だったようです。
頻繁に海に出ていたわけで、
淤能碁呂島の変化の様子を、
平畑遺跡の住民たちよりも、よく知っていたのかもしれません。
三つめには、
高岡町の学頭遺跡を想像してみました。
この学頭遺跡は、大淀川中流域にあって、川を下れば砂丘に到ります。
縄文時代後期後半の土器とともに、
翡翠製の管玉や、異形勾玉が出土していることから、
東日本の縄文文化とも交流があったと考えられています。
大淀川の水運を利用しながら、
砂丘の成長を、長い年月にわたって見守り続けたことでしょう。
以上、
伊邪那岐命・伊邪那美命の生まれ故郷について、想像してみました。
『宮崎県史・通史編 原始古代 1 』を参考にして、
宮崎市とその近隣にある、三ヶ所の縄文時代晩期の遺跡について想像してみました。
まず、平畑遺跡。
この遺跡は、宮崎市南部の清武川と加江田川にはさまれた丘陵上に営まれたもので、
宮崎県内最大規模の縄文時代の集落でした。
弥生時代には、この平畑遺跡は姿を消していることから、
伊邪那岐命たちが、淤能碁呂島への移住に成功してから、
集落全体を新天地に移動させたのではなかったか、・・・と、
想像してみました。
次に、松添貝塚。
この遺跡は、平畑遺跡の東南、約 4.5 キロメートルの位置にあって、
平畑遺跡と同じ時期に営まれたものです。
海に面したところにあって、
クジラやイルカの骨なども出土していることから、
漁労にたけた人々だったようです。
頻繁に海に出ていたわけで、
淤能碁呂島の変化の様子を、
平畑遺跡の住民たちよりも、よく知っていたのかもしれません。
三つめには、
高岡町の学頭遺跡を想像してみました。
この学頭遺跡は、大淀川中流域にあって、川を下れば砂丘に到ります。
縄文時代後期後半の土器とともに、
翡翠製の管玉や、異形勾玉が出土していることから、
東日本の縄文文化とも交流があったと考えられています。
大淀川の水運を利用しながら、
砂丘の成長を、長い年月にわたって見守り続けたことでしょう。
以上、
伊邪那岐命・伊邪那美命の生まれ故郷について、想像してみました。
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伊邪那岐命の悲しみ ( 1 )
2009年03月26日
伊邪那岐命は、その地域の首長の地位にあったのかもしれませんが、
彼はその人生で、少なくとも二度、家族との別離という悲しみを経験しました。
まず、愛妻伊邪那美命を失いました。
古事記・日本書紀ともに、火の神を産んだことが原因で、
伊邪那美命が亡くなったと記述していますから、
何らかの、非常な高熱を発する病に冒されて亡くなったのでしょう。
伊邪那岐命が、妻恋しさのあまり、
黄泉の国まで会いに出かけた話は、よく知られています。
このエピソードについて、
日本書紀の第五段には、数種類もの『一書 ( あるふみ ) に曰はく』が記載されていることから、
伊邪那岐命に、話のモデルとされるなんらかの行動があったのでしょう。
九番目の『一書に曰はく』では、
伊邪那岐命が、妻の亡き骸を見ようとして、殯り屋に入ってきたと設定されていますが、
私は、この殯り屋の中でのできごとが、この話の元になっていると想像しました。
※※※
・・・伊邪那美命が亡くなってから数日が過ぎた、蒸し暑い夏の深夜。
蘇りの可能性はなくなったと判断されて、
夜が明ければ、いよいよ埋葬されてしまうというので、
伊邪那岐命は、せめてもう一度妻の姿を見ておきたくて、
亡き骸が安置されている殯り屋に訪れました。
すでに、腐臭が部屋の空気を支配しています。
棺の傍らには、魚油の、暗い灯りが揺れていて、
付き添いの年老いた巫女は、片すみの闇の中で眠りこけていました。
生き物が死んだら腐乱する。
もちろん、伊邪那岐命は承知しています。
けれども、
あまりの悲しみに、眠ることもできず、疲労も極に達し、意識は朦朧として、
伊邪那岐命にとって、
棺の中には、愛妻が在りし日のままで横たわっているはずなのでした。
けれども、
伊邪那岐命は、信じられない、受け容れ難い、妻の変わり果てた姿を目撃してしまったのです。
驚愕して、奇声を発しながら、殯り屋を飛び出したことでしょうか。
古代人に特有の感覚で、何をさておいてもしなければならないと、
身体が、禊ぎ祓えを要求したのです。
そのために、
一目散に向かった先は、阿波岐原でした。・・・
※※※
と、まあ、
こんな想像をしてみました。
伊邪那岐命のもう一つの家族との別離については、
改めて投稿します。
彼はその人生で、少なくとも二度、家族との別離という悲しみを経験しました。
まず、愛妻伊邪那美命を失いました。
古事記・日本書紀ともに、火の神を産んだことが原因で、
伊邪那美命が亡くなったと記述していますから、
何らかの、非常な高熱を発する病に冒されて亡くなったのでしょう。
伊邪那岐命が、妻恋しさのあまり、
黄泉の国まで会いに出かけた話は、よく知られています。
このエピソードについて、
日本書紀の第五段には、数種類もの『一書 ( あるふみ ) に曰はく』が記載されていることから、
伊邪那岐命に、話のモデルとされるなんらかの行動があったのでしょう。
九番目の『一書に曰はく』では、
伊邪那岐命が、妻の亡き骸を見ようとして、殯り屋に入ってきたと設定されていますが、
私は、この殯り屋の中でのできごとが、この話の元になっていると想像しました。
※※※
・・・伊邪那美命が亡くなってから数日が過ぎた、蒸し暑い夏の深夜。
蘇りの可能性はなくなったと判断されて、
夜が明ければ、いよいよ埋葬されてしまうというので、
伊邪那岐命は、せめてもう一度妻の姿を見ておきたくて、
亡き骸が安置されている殯り屋に訪れました。
すでに、腐臭が部屋の空気を支配しています。
棺の傍らには、魚油の、暗い灯りが揺れていて、
付き添いの年老いた巫女は、片すみの闇の中で眠りこけていました。
生き物が死んだら腐乱する。
もちろん、伊邪那岐命は承知しています。
けれども、
あまりの悲しみに、眠ることもできず、疲労も極に達し、意識は朦朧として、
伊邪那岐命にとって、
棺の中には、愛妻が在りし日のままで横たわっているはずなのでした。
けれども、
伊邪那岐命は、信じられない、受け容れ難い、妻の変わり果てた姿を目撃してしまったのです。
驚愕して、奇声を発しながら、殯り屋を飛び出したことでしょうか。
古代人に特有の感覚で、何をさておいてもしなければならないと、
身体が、禊ぎ祓えを要求したのです。
そのために、
一目散に向かった先は、阿波岐原でした。・・・
※※※
と、まあ、
こんな想像をしてみました。
伊邪那岐命のもう一つの家族との別離については、
改めて投稿します。
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